大学院教育発達科学研究科・教育学部
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: 教育科学専攻 :
修士論文提出者の声
修士論文を作成して後期課程に進学した学生からのメッセージを掲載するので、参考にして頂きたい。
●修士論文を書き終えて
修士論文は、研究者の第一歩だとよく言われる。博士後期課程に進学した今、その言葉の 重みを感じている。 私は、修士論文のテーマをずいぶん長いこと決めあぐねていた。在日外国人の問題をやろ うとは思っていたものの、どういう方法で、何に焦点を当てていったらよいのか、悩んでい たのだ。そのころは外国人と接する機会をほとんどもっていなかったので、外国人の問題も 表層的にしか見ることができなかった。そんな状態では、テーマ・方法を決定することなどで きなくて当然だろう。 そこで、私は実際にフィールドに出ていくことにした。ある公立中学校の日本語指導をす るための取り出し教室に、ボランティアティーチャーとして参加するようになったのである。 その取り出し教室に通うようになって、私は、非常にショックを受け続けた。先行研究の検 討はある程度済ませており、だいたいの予備知識はあったつもりだった。しかし、現実の教 育現場は、文献(本や論文)の中よりももっと熾烈で苛酷だった。そこには、来日したばか りで日本語のほとんど話せなかったり、来日5年で日本語は流暢に話せてもひらがなすら正 しく書けないなど、さまざまな外国人生徒たちがいた。一部の教師の並々ならぬ努力と善意 に上で何とか外国人生徒教育は成り立っている状況だった。 学校の状況を知れば知るほど、研究者の認識の甘さを痛感した。現場に出てみなければ、本 当の問題は見えてこないのだ。一度や二度の訪問観察では知り得ない状況がある。先行研究 を見ていると、統計をとって数字で表した研究が多かった。しかし私には、いまいち問題の核 心に迫るものが感じられなかった。人を数値化することに全く意味がないとはいわないが、 リアリティーを感じなかったのだ。実態を知るほどに、その感を強くし、また私自身の研究 において何をなすべきかがはじめて見えてきた気がした。 このように、私は学校現場への参加経験に基づき、修論を書き上げることができた。学校 現場への参加は、当初修士論文のためのものであったが、それ以上のものを私に与えてくれ た。教育現場でおこる矛盾に対し感じた憤りや怒り、悲しみは、研究者としてやっていくん だという気概につながっている。 おそらく、修士論文というハードルがなければ、私は学校現場の門をたたく勇気を持ち得な かっただろうし、研究者になる目的意識も「ただ何となく」といった低レベルで終わったこと だろう。何よりも、教育のみならず社会に対し、いつまでも鈍感なままだったに違いない。 修士論文を書いて、いくつもの成果を得、自分の人生の方向性を見いだせた気がしている。
●修士論文執筆に対しての所感
学部で卒業論文をまとめあげて卒業し、修士課程に進学した途端に、修士論文執筆という 課題が目の前に突きつけられる現実から、「逃避」したいような衝動に幾度となく駆られなが らも、なんとか厳しい現実から目を逸らさずに、修士論文を書き上げる、その目標を達成す ることができたことをまずは喜びたい。 さて、修士論文をまがりなりにも提出した者として、これから本専攻科を志す方々に、修士 論文執筆に対しての所感を述べさせていただこうと思う。私は、修士論文に関しては、自分な りの目標を立てることが大切だと考える。すなわち、修士論文において自分は何をどこまで明ら かにするのか、言い換えるなら修士論文に対する自分なりのスタンスを決めることである。大学院進学当初、私には修士論文というものの性格や位置づけがはっきりとは掴めていなかった。 こんなとき自分だけであれこれ思案していても埒があかない。そこでポイントになってく るのが研究環境の重要性である。幸いわが研究科には院生研究室という環境が整備されてい る。これを活用しない手はない。その活用方法は物理的な意味だけのそれではない。前期課 程の院生と後期課程の院生が同室となるよう配置された院生研究室では、修論を仕上げた経 験を持つ先輩である、後期課程の院生に日常的に研究上で困ったこと悩んでいることなどを 相談することができる。私は修士論文で何をどこまで明らかにするか、明確なスタンスをも って望むことの大切さを先輩方からアドバイスされた。それによって修士論文を書くという ことの意味や、その後の研究に対する位置づけを把握することができた。私が修論に対して とったのは、「修論ではオリジナリティを求めすぎるよりもむしろ徹底的サーヴェイ (survey)でいく」というスタンスだった。欲張りすぎたり壮大に考えすぎてはかえって進 展しない。後期課程進学、博士論文執筆を視野に入れて、修論は基礎的な研究として位置づ けることで、消極的ではあるかもしれないが、(傍から見れば拙い出来ばえの修論に対しても、 自分にとっては一応の成果あるものとして納得することができた。修論執筆にあたっては、 行き詰まりや、困難さはつきものである。そんな折り、「修論で完ぺきな人や、すべてを満足 に明らかにし得た人なんかいないんだから」という先輩からの言葉には、非常に励まされる ものがあった。 また、修論執筆過程を通じて実感したことの一つに、時間を有効に利用することの重要性 がある。大学院前期課程に進学した時点で、すでに修論提出まで2年をきっているという事 実を鑑みれば、なるべく無駄なく効率よく研究をすすめることが鍵となる。修論だけに十分 な時間と労力を注げる環境にある人も一部にはあるかもしれない。しかし、修論のことだけ に関われない事情も必ずや発生してくる。それをマイナスにとらえれば「時間がない」とい うことになってしまう。だが逆にいえば「修論に充当すべき時間が少ないので、かえって時 間の管理がし易い」と、プラスにとらえることもできる。私に限っていえば、修論だけに関 われる環境になかったことが、時間の創出を工夫する努力や、その時間を有効に利用するこ とにつながったということができる。時間が有り余っているのに、その時間を使いあぐねて いる人を見かけることがある。「時間はいくらでもあるんだから」という状況の上にあぐらを かいて結局何もできないという状況に陥る。「この時間に、これだけのことをやる」という課 題を自分自身に突きつけたら、決して妥協しない姿勢で臨んだことが、修士論文執筆という 課題突破に有効であった。修論執筆で得たこれらの体験は、今後の研究生活や人生において 他の課題にぶつかったときや、他の困難な場面に出くわしたときにも生きてくると思う。少 なくとも今後の人生の糧になることだけは間違いないだろう。いずれにしても「修士論文を 執筆する」という課題に真正面から取り組むことは、修士論文という課題のためだけでなく、 自分の人生そのものに計り知れない成果をもたらす可能性があると感じている次第である。
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