社会の急激な情報化にともなって、大学における研究・教育にも多様な変化がおきている.また情報ネットワークのさまざまな可能性が示されることによって、研究や教育や学務や学習の方法に対して課題と問題とが突きつけられている.本稿では、筆者の実際の経験や自らの試みにもとづいて、今後我々が大学において考えていかなければならない問題や課題を述べたいと思う.それはまずネットワーク社会での我々の行動の問題、つぎにネットワーク社会での我々の課題としての、知の新しいあり方の問題である.
なお本稿では、大学の構成員の関心の高い、ネットワークを利用した授業の実践や、WWWによる大学からの情報発信については、紙幅の関係で触れていない.これらについては、それぞれ大谷(
1997 b)、大谷(
1995 )を参照して頂きたい.
2.ネットワーク社会での行動を考える
まず、筆者が経験している問題をとり上げて考えたい.
大学のネットワーク管理者へのメールの引き起こすもの
大学などの機関のネットワークやWWW(World Wide
Web)の世話役としてpostmasterというメールアドレスがあり、ホームページには
www-admin等のメールアドレスが表示されている.そしてそれは、外見上ひとつのメールアドレスにしか見えなくても、その大学というインターネット上のドメイン(領域)の多数の管理者や、さらに各学部や各学科等のサブドメインの非常に多くの管理者たちの電子メーリングリスト(そのメールアドレスに電子メールを送ると、それがメンバー全員に自動的に配信される仕組み)のメールアドレスになっているのが普通である.したがって、これに対して質問や意見のメールを送ると、そのメールは、大学によっては百通以上にも増殖して各学部や各学科のネットワークやWWWの管理者に送られる.これは、相手の機関内のトラフィック(情報の交通量)を増やすることになる.したがって、このメールが、ネットワークの管理者に送られるべき目的と内容を有するものでなければ、メールの目的に関係がないのにそれを受信せざるを得ない大勢の人の貴重な時間を奪うことになり、相手の機関で大変な迷惑をかけることになる.筆者も学部のサブドメインの管理者として、この一員になっているため、毎日大変多数のこのようなメッセージを受け取る.多くは、「大学院○○研究科の募集要項を送って欲しい」というような、ネットワークの管理とは全く無関係な、きわめて個人的な依頼や質問であり、企業からの宣伝や、他大学の学生からの大学祭の宣伝などのメールもある.いずれも、これらのアドレスに送るのは不適切なメールである.最近のもので、「貴大学のA教授は、B大学と兼任になっているが、どちらが主でどちらが副か?自分は貴大学とB大学とのどちらの大学院を受験したらいいか?」というような、こちらが首をかしげたくなるような質問のメールもある.なかには、就職したいが貴大学で雇ってくれないかというようなメールもあってあきれてしまう.不適切なメールアドレスにこんなメールを送りつけるのは、自分の無配慮さを宣伝しているようなものであり、就職活動にマイナスにしかならないからである.
送り先のアドレスさえあれば、それが適切かどうかを判断せず、あるいは、それが適切であろうとなかろうと、とにかく質問や依頼を送りつけるのは、大学の構成員として厳に慎むべきことである.
ニュースグループへの投稿 −さらに大きな無用なトラフィックを生じる危険性−
ところでここで述べた問題の及ぶ範囲は、すくなくとも一機関に限られるのに対し、さらに大きな問題を生じる場合がある.それはニュースグループ(インターネット上で、特定の話題についてメッセージを投稿し、それがニュースサーバと呼ばれる多くのコンピュータによってバケツリレー的に、しかもねずみ算的に増やされながら受け渡しされて、広域的に配信される仕組み)である.世界的な規模のニュースグループでは、一通の投稿が、それを講読している世界中のニュースサーバにつぎつぎに配信されるため、想像もできないほど大きなトラフィックになって、世界を駆けめぐることになる.こういった事情を十分理解しないで安易に情報を発信することは、情報ネットワークの発展の重大な阻害因となる.
ネットワークというメディアの特性と感情の表現
また、ネットワークを利用する場合の感情の表現もよく問題になり、普段は穏やかな人が、受け取ったメールに対して非常に感情的な反発のメールを出すことがある.この場合、送信後に後悔することもあるようだが、インターネットのメールは送信後に取り消すことができない.
そしてさらに問題なのは、感情的なメールであることを本人が自覚しないケースもあることである.筆者の経験でも、メールできわめて暴力的なことばを投げかけてくる人がいる.しかし会って話すと、つねに礼儀正しく丁寧である.これについては筆者もずっと考えて来たのだが、現時点の結論として、このケースの場合、ネットワーク上と現実とで、一種の人格の分裂のような状態が生じていると考えざるを得ないようなのである.
このようなことがおきるのは、まず第一に、メールを読んでそれに返事を書く作業が、コンピュータ上の閉じた世界で行われるためではないかと筆者は考えている.それはちょうど、普段は穏やかな人が自動車という閉じた空間の中では、乱暴なことばで他の車や歩行者をののしることがあるのと似ている.また第二に、その手続きが連続的で多様な段階を踏まず、きわめて容易であるためではないかと考えている.たとえば郵便と比較すると、郵便では郵送料がかかるし、便箋を用意し、手紙を書き、封筒を用意し、宛先と自分の住所氏名を書く手続きの面倒さが、反発の手紙を送ることを思いとどまらせるる可能性がある.また、たとえいったん手紙を書き始めても、それら手続きのどこかで、手紙を出すことを思い直すチャンスがある.しかし、受信した電子メールに反発を感じれば、すぐに感情的な応答メッセージを書いて一瞬の内に送信してしまえるし、その間、誰とも話をせず、コンピュータの前を離れないため、気分転換がなく思い直すきっかけを得にくい.つまり、ネットワーク上での不適切な感情表現の問題は、このようにメディアの特性に起因するものと考えられるのである.
善意からも生じるチェーンメール
さらに、ネットワークの世界では、善意の行動でも問題を引き起こすことがよくある.
郵便の世界には、「不幸の手紙」などの無限連鎖的に郵便のトラフィックを増大させるチェーンメールが存在するが、ネットワーク社会にもこれが存在する.その一部は悪意で始められるが、「○○という題のメールはコンピュータウイルスを含んでいるので、絶対に読んではいけませんよ」というような、一見、善意を装ったメッセージとして発信されるので、コンピュータやネットワークの事情に詳しくない人は、これを受け取ると、善意で知人や自分の参加するメーリングリストに送ってしまう.また、「○○病院で、ある入院患者が希少な○○型の血液の輸血を必要としている」というような緊急のメッセージが善意で配信され続け、その患者がとっくに退院してしまったのに、メッセージだけは日本中を駆けめぐっているという事態も実際におきている.善意でも、問題を生じる場合があるのである.
増大するネチケットの重要性
以上のような問題を生じないためには、利用者がネットワークのさまざまな仕組みや特性を理解して、適切に行動しなければならない.しかしインターネットという広範で多様な、しかも急速に発展を続けている世界を対象に、正しい理解と行動の指針を自分で考えることはきわめて困難である.そこでそのために、「ネチケット」(ネットワーク上のエチケット)が存在する.
ネチケット文書には、電子メール、WWWなどごとに、どういう行動が問題になるか、どういう場合はどうすべきかが書かれている.ネチケットを学ぶことは、行動の指針を学ぶだけでなく、ネットワーク全体についての正しい理解を得ることにもなる.ただしネチケットは、唯一絶対のものではなく、利用者はこれを学びながら、みずからも望ましい行動を考え続けなくてはならない.(日本語化されたネチケットを集積したページとして、次のものがある.
http://www.togane-ghs.togane.chiba.jp/netiquette/index-j.html)(二で述べた内容の初等・中等教育での問題や課題については、大谷(
1996 )を参照のこと.)
3.学会の口頭発表の予稿をWWWで公開すること
ところで、これからのネットワーク社会では、ネットワークというメディアを基盤として、研究やその発表のあり方を、どのように発展させられるのだろうか.また、そこにどのような問題と課題が存在するのだろうか.以下ではこれについて、筆者の試みなどを紹介し、考察を行いたい.
筆者の試み
どの学会でもほぼ同様だと思うが、学会の大会等での口頭発表には、発表の内容をまとめた予稿(大会講演論文)を、学会当日の何か月か前までに提出し、それが予稿集(大会講演論文集)として冊子体にまとめられ、当日、学会参加者に配布される.
筆者は昨年( 1996
年)、ある学会の大会の課題研究のセッションで発表をすることになった際に、そのための予稿を、まえもって自分のWWWページで公開することにしたのである.同時に、大会本部と連絡を取り、大会本部がWWWで公開している大会のプログラムの筆者の発表題目から、筆者の予稿のページにリンク(WWWページ上で情報として関連づけ、簡単な操作でその情報を見られるようにすること)して頂きたいと依頼した.大会本部は学会本部と協議した上でこれを許可してリンクして下さり、同様の要望があれば応える旨の声明を出した.筆者はこちらの予稿のページからも大会のプログラムのページにリンクを行い、これで相互にリンクされた.
同時に、コンピュータの教育利用や情報教育を主題とし、主に研究者をメンバーするメーリングリスト上で、この経緯を説明して自分の考えを公表し、他の研究者らと継続的に意見交換を行った.この議論を経て、同じ大会で発表する他の何人かの研究者も、同様にWWWで予稿を公開し、大会プログラムからリンクされた.
筆者の一連の試みは、研究の公表に関する将来のあり方についての議論を開始する必要性を強く認識し、現状に一石を投じてその引き金としようとしたものである.ただし、突出した行動で学会や大会本部に迷惑をかけることのないよう、大会本部と連絡を取り合って進めたのである.
メリット 学会当日の議論が活発になる可能性
予稿をWWWで公開しておくことのメリットは、もちろん、学会の参加者が、参加する前に発表予定の内容を理解しておくことで、発表時の活発な議論が期待できるという点にある.学会の参加者は、当日、冊子になった予稿集を参考にして口頭発表を聞くのだが、それが学会当日まで入手できないことが、学会当日の各セッションでの議論が活発化しない一つの要因とみなされてきた.ある学会では、それを改善するために、予稿の提出のしめきりを早くし、予め参加者に予稿集を郵送したこともあったほどである.筆者が公開したことのねらいももちろんここにあった.
なおメリットは他にもあろう.たとえば、学会に参加予定でなかった人が、発表者の予稿を見て学会に関心を持ち、参加するという可能性もあげられるかもしれない.
学会に提出した予稿の著作権はどこにあるのか
ただし同時に、いくつか問題もある.第一に、提出した予稿の著作権はどこにあるのかという問題である.この問題は法律的なことがらでもあり、簡単には解釈できないが、筆者はいろいろな文献にあたった上で、著作権は著者が保持しているという立場に立った.予稿提出によって、著作権は学会に移譲したものという考えもあるようだが、少なくとも電子的な媒体での著作権は移譲していないという立場を取った.
WWWによる公開は予稿集の販売を妨害しないか
予稿集は通常、冊子として販売される(大会参加費に含まれる場合もある)ため、もし発表者の多くが予稿をWWWで公表したことで冊子が売れなくなり、大会が赤字になれば問題だが、実際にはどうだろうか.
筆者の考えでは、冊子の需要はなくならない.なぜなら、WWWでの予稿の公開は、著者のさまざまな都合や、場合によっては、研究生活からの引退や死去によって、取りやめられる可能性がある.このことから、たとえ大会前日までに発表者全員が予稿をWWWで公開していたとしても、一年後にそのすべてが公開され続けている保証はない.しかし冊子ならば残る.したがって冊子はいぜんとして必要であり、需要はなくならないと考えられる.
なお国際学会などでは、予稿(国際学会の場合、論文を発表する場と考えられているため、発表論文というべき)が、proceedings
として、学会後に出版される傾向にある.この場合、発表者は論文の公表権の放棄を求められることがあるので、その際には電子的な公表の権利を放棄するかどうかを明確にしておくことが必要になる.そしてむしろ筆者は、その際には電子的な公表の権利を放棄すべきでないと考えている.それは、研究者が研究成果を電子的に公表することは、今後いっそう重要になると考えられるし、研究全体の発展に必要だと考えるからである.
予稿の発表の時点はいつになるのか
さらに、この予稿の発表の日時はいつになるのかが、研究発表のプライオリティー(優先権)の問題として重要である.いっぱんに予稿集は大会当日に公表されるが、WWWで公開すれば原稿提出時には公表できる.そうするとこの論文の公表は、WWWでの公開の日時になるのかそれとも大会当日になるのか、これが問題になるのである.
筆者が公開した際には、あくまで冊子体の予稿集の補助と位置づけ、理論上の発表年月日は大会当日とする立場を取ったが、同様な公開が広まれば、電子的な公開の時点を発表時点とする主張が多くなる可能性がある.著者としては当然、早い方を主張したいであろうし、予稿の提出時と大会当日とでは数カ月離れている場合があり、その間に他の人がWWWを見てアイデアを取得し、論文として先に発表する可能性もないとはいえないからである.したがって、次第に発表の事実の重みが重視され、電子的な公表の時点が発表の時点であるという理解が広がるかもしれない.
4.雑誌にかわる学術論文の発表媒体としてのWWWの可能性と問題点
ところで議論をさらに一歩すすめて、予稿ではなく学術論文を考えてみる.つまり、これまで学会誌などの学術雑誌が果たしてきた、論文の発表媒体としての役割を、WWWが担えるかどうか、また担えるとするなら、そこにどのような可能性と問題点があるのかを考えてみる.
投稿から発表までの時間の短縮の可能性
一般に、ある季刊の学会誌に論文が投稿されてから掲載されて読者が読めるようになるまで、数カ月程の時間がかかる.これは、受理、査読、再稿の要求と提出、再査読などと、その間の郵送の時間、また最後に印刷と校正や、雑誌の配布などの時間がかかるためである.しかしWWWを学術雑誌のかわりに用いるなら、これらの各段階での時間をかなり短縮できる.これにより、論文完成から発表までの時間が短縮できれば、ますます急速に発展し展開する研究を、タイムラグなく発表していける.これは最大のメリットであろう.
経費の削減の可能性
なお、WWWを用いる学術雑誌は、冊子体の論文誌を公刊することに比べれば、印刷経費や郵送経費を大幅に削減することができるため、発表の回数と論文の本数を増やすことができるかもしれない.このことは、学会にとって今後いっそう重要となる、短いサイクルで生産的に会員の研究成果を公表していくというニーズに応えることになる.
マルチメディアによる論文表現の可能性
また、論文の表現の形式も変化する可能性がある.WWWでなら、マルチメディアでハイパーテクスチュアルな論文にすることができる.たとえば、本文中の引用部分をクリックすると論文の末尾の文献リストの文献名に飛び、さらにその文献名をクリックすると、その引用文献の原著者のページや学会のページにあるその文献自体を読めるようにすることができる(これらは簡単に実現でき、WWWで公開している筆者の論文もそうしてある).それだけでなく、グラフや表をクリックするとそのもとになった詳細なデータを表示したり、実験や観察の様子を、写真だけでなく動く映像で示したりすることも可能である.
もちろん、そのような表現は論文にどのような機能を付加するか、それらは従来の論文の概念とその社会的な機能をどのように変化させるか、というような問題に対する慎重な検討と議論が必要であろう.
そもそもWWW上の論文は引用できるか
しかし同時に問題点もある.たとえば「引用」を考えてみる.電子媒体はいつでもどのようにでも内容を変更することができるので、Aという著者が論文を発表後、自分で再検討したり批判に応えたりして、論文の内容を一部修正あるいは削除することができる.しかしそうすると、WWW上のAの論文をBが引用して論文を書いた時点と、Bの論文が公表され、読者が被引用文献であるAの論文を確認しようとした時点とで、Aの論文の内容が異なるという事態が生じる可能性がある.
印刷媒体では決してこのようなことは起こらない.つまり、いったん学術雑誌などで発表された論文は、紙に印刷されており、しかも論文の著者の手を離れて多数が配布されるため、著者によって改変されることがない.それは、印刷媒体である雑誌が形態的に恒常性を有するという、メディアとしての物理的特性に拘束され、支えられている.これこそが、「引用」という知の世界のルールを成立させている基盤である.このルールが、電子媒体を前提としては成立しないのである.
したがってもし、学会等がWWWページを論文発表の媒体として活用するなら、論文を掲載するページは学会が厳重に管理し、発表後は絶対に内容を改変できないようにして(印刷媒体と同じ特性を持たせるなら、たとえ誤字等が発見されても改変しない)、発表内容の恒常性を保証しなければならないだろう.
研究の前提やパラダイムを越えた批判にさらされる危険性
予想される問題点を、もう一点だけ上げる.それは、WWWでの公開により、論文の読者が無制限に広がることに起因する問題である.
これまで学会誌等の学術雑誌の読者は、学会等の会員かその雑誌の購読者に限られていた.これらの読者は、その領域の研究全体の経緯や背景を了解しているから、論文はそれを前提に執筆される.したがって論文に対する批評や批判があるとしても、それはそのような学問的基盤を共有した上でのものであった.しかしWWWによって誰でも手軽に専門的な文献が読めるようになると、そのような基盤を共有しない読者から予期しなかったような批判を受けて、著者はとまどうことになるかもしれない.たとえばある論文が、その主題に関する過去の有名な論争を背景として書かれているのに、その論争の存在を知らない読者が、論文の主旨を誤解して批判するかもしれない.あるいは学問の外の世界から、その学問への批判や攻撃のようなものを、ある論文に対して投げかけてくるかもしれない.たとえば教育学の論文に対して、その内容に対する教育学的な批判ではなく、「そのような研究ばかりしているから学校でのいじめがなくならないんだ」というような批判、また、実験動物を使った医学の研究論や、原子力エネルギーの開発研究に対する批判や攻撃などもあるかもしれない.
もちろんこういったことは、これまでも起こり得た.批判したければ雑誌を講読すればよいのである.しかしそのためにわざわざ講読するのと、自宅にいながらにして論文が手軽に読めるのとでは、事情が異なる.先述のようなネットワーク上での行動の特性を考えるにつけ、これからは、別の目的でネットサーフィンをしている最中にたまたま目に入った論文を読んで、思いついて批判や攻撃をしたくなり、論文の著者や学会に電子メールを送りつけるということは十分にあり得ると考えられる.あるいは「無用な研究」とか「危険な研究」というリストに自分の論文名が恣意的に掲載されて、そこから論文本体にリンクされ、不快な思いをする研究者が出るかもしれない.WWWによる論文の公開は、著者や学会を、このようなこれまでなかった種類の批判や攻撃にさらす可能性がある.
なお、論文の公開によって著者が予期せぬ批判にさらされるのと似た事態は、子どもの絵画作品をWWWで公開した小学校がすでに経験している(大谷(
1997
a)).いずれも、これまで閉じていた文化が社会に開かれる場合に必然的に生じる問題であると筆者は考えている.
学術誌を多様な読者層に開くことはむしろ望ましいことか
しかしこれを、逆にむしろ歓迎すべきことと考えることもできる.これは、学問を象牙の塔から社会へと引き出し、社会とともに問題を考えていくよい機会となるという考えである.
しかしそのためには、これまでの研究が専門的な社会の中でなされてきたために前提としてきたことや省略してきたことを、ひとつひとつ丁寧に行っていく必要があろう.たとえば、個々の研究論文には、その学問の中での研究の意義だけでなく、社会における意義をも必ず述べるようにするなどである.このように、WWWでの発表にともなって、ハイパーテキストにしないまでも、論文の構成方法などの伝統的な学術技法も、修正を迫られる可能性がある.そしてこのことは、閉じた社会が開かれるために必ず越えなければならない障害である.ただしこのことが、研究の専門性を低めたり、研究の生産性にブレーキをかけたりすることのないよう、十分な検討が必要であろう.
5.おわりに
ネットワーク社会では、ネットワークという新たなメディアを基盤として、これまでの規範では律しきれない行動のあり方や、これまでとは異なる知のあり方などの、新たな文化が生まれようとしている.しかしそれを望ましい方向に発展させていくためには、まず情報ネットワークに関する正しい理解が必要である.その上で、そのようなメディアの特性にもとづく、望ましい行動の規範や知のあり方を、模索しながら、来るべき情報ネットワーク社会を構想していくことが必要である.その際には、従来の文化との親和性やそれからのなめらかな移行を前提としながら、、各自が多様な試みを意欲的に行い、それを題材として社会全体で検討し、議論をすすめながらコンセンサスを形成していくことが必要であると考えている.
なお、本稿の三・四での論述は、前述のメーリングリストでの討論を背景としている.こここに記し、討論の参加者に謝意を表する次第である.
・大谷 尚(
1995
)米国の留学・高等教育情報システムの現状 −カレッジ・ボードを中心に− 「留学交流」
七巻7号 1995 、6-9 頁
・大谷 尚(
1996 )情報を交流する能力『教職研修「心の時代の教育」』宸T
情報化時代に求められる資質・能力と指導、 1996
、 教育開発研究所、102−105頁
・大谷 尚(
1997a
)インターネットは学校教育にとってトロイの木馬か −テクノロジーの教育利用と学校文化− 「学習評価研究」專九、
1997 Spring 42-49頁
・大谷 尚( 1997b
)メーリングリストを活用した授業のサポート 「大学授業の技法」、有斐閣、
1997 、48-51頁
この論文は、標記雑誌に掲載された論文です.このページには、拙著論文を読んで下さるかたの便宜のために掲載しました.原文は縦書きで、数字は漢数字です.このページへの掲載の作業は慎重におこないましたが、その際に、誤って原文とは若干異なってしまった部分が絶対にないとはいえません.
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名古屋大学 教育学部 大谷 尚