今日、多くの学校がインターネットを利用した教育実践に取り組んでおり、そこでは多様な蓄積がなされてきている。一方、個人情報保護条例を有する自治体で
WWW
による学校からの情報発信ができないことや、あえてそれに反してページを公開するケースも、議論を呼んでいる。
従来のコンピュータ利用は、それがLANでむすばれた数十台のコンピュータであっても、教室あるいは学校の壁のなかに収められている。しかしインターネットにつながれたコンピュータは、たった一台でも外の世界との仲立ちとなる。そこから、教室や学校の外との情報の交流が始まる。それは、現在の学校の閉鎖的で閉塞的な状況を打破して、学校同士の交流の促進や学校外の多様な学習資源の活用に発展する可能性がある。つまり、比喩的な表現だが、インターネットは教室や学校の壁を突き崩し、学校教育を、社会の変化に対応した、より開かれたものへと発展させる可能性がある。筆者は、現在の日本の学校はあらゆる機会に開かれていくべきものと考えており、このような発展には大いに期待する。
しかし、学校は開けばそれでよいのか。開くことによって得るものばかりでなく、失うものはないのか。開いたときに、教師や子どもは、これまでどおり活動ができるのか。筆者は同時に、こういう問題意識から逃れることができない。ここで筆者が問題視しているのは、暴力的、破壊的、風俗的など、好ましくない情報の流入だけではない。むしろ、学校が閉鎖的であることを前提に機能させてきたものを、無自覚に失う可能性である。
以下にこの問題について、ある実践事例(奥村
1996)
に対する筆者なりの分析を手がかりに検討する。
(1) WWWでの子どもの作品の公開とそれへの感想の募集
ある小学校で、6年の一学級の児童がコンピュータを使って描いた一人ひとりの絵を、インターネットの
WWW (World Wide
Web)で公開し、絵に対するコメントをメールで送ってもらい、それを子ども同士の相互鑑賞の時間に役立てることが計画された。教師は、コンピュータの教育利用等を主題とするメーリングリストで、児童の絵の公開を知らせ、それへの感想の送付を依頼した。その際に教師は、「一点一点の感想、全体的な感想、気にいった作品のみへの感想、なんでも結構です」と記した。このことから、この時点で教師は、たとえ気に入った作品のみへの感想でも、多くの人から集まれば、それが全体に散らばって全員への感想が得られると期待していたのではないかと推測できる。この依頼は別のメーリングリストにもポストされた。なお、コメントの送り先は教師のメールアドレスであり、すべてのコメントは、子どもに与える前に教師というフィルタを通すことができるようになっていた。
(2) 生じた問題
その結果、多くの感想が寄せられたが、問題も生じた。それは第一に、感想の偏りであった。結果的に、感想を多く集める作品とそうでない作品との違いが生じたのである。そうなると、コメントの多い少ないが絵の人気投票のようになってしまう恐れもあり、これは教師の意図に反している。
第二の問題は、「子ども達に直接読ませると誤解が生じるメッセージがまじって」いたことである(これはメーリングリストで関係者から報告された)。関係者は、そのようなコメントは、メーリングリストでの依頼に応えたものではなく、大学の
WWW
ページからリンクされたこのページを見て、主旨を理解しないで送られたものと分析している。しかし、たとえ依頼を読んでも、そういうメッセージを送ることがないとは言えないし、そもそも
WWW
で公開すれば誰でも見ることができるため、どのようなコメントが来ても不思議ではない。幸い今回は、子どもたちを意図的に傷つけるようなメールはなかったが、子どもや教師を意図的あるいは無意図的に傷つけるメッセージが混じる可能性は、十分にある。
(3) 学校と社会の文化の違いとそれが引き起こすコンフリクト
筆者の視点からは、上の二つの問題は、学校の文化と社会の文化との違いが引き起こしたものと捉えられる。問題を分かりやすくするために、担任の都合で自習にして絵を描かせている学級に、別の教師が監督に来た場面を想定してみよう。この場合、監督に来た教師が、気に入った絵を描いている子どものところへ、他の子の作品を無視して一目散に歩み寄り、その子あるいは数人の子の絵にだけ感想を与えただけで教室を去ってしまうということは想像しにくい。机間巡視をしながらすべての子どもにコメントを与えたり関心を示したりするのが、固定的なイメージかもしれないが、子どもに対する日本の教師らしい態度・行動だと考えられるし、その背景には、すべての子どもとの信頼関係を大切にし、平等に扱うことを重視する、日本の教師文化がある。まして、監督教師が、子どもの絵を見て、いきなり子どもを傷つけるようなコメントを発するようなことは考えられない。
それに対して、学校の外の社会の文化は、人に対して、あらゆる人に平等に関心や関わりを持つことを求めず、一般の社会人は、そのような行動をとらない。また、自分の好みを率直に表現することも許される。その結果、特定の絵にだけ関心をもってコメントを送ることは当たり前である。また、学校での評価のコメントが、基本的に子どもの意欲を引き出し、子どもを伸ばす目的で行われるのに対し、社会では、評価はただ選択のために行われることもある。したがって、社会一般のやり方を子どもに適用すれば、場合によっては、たとえ悪意がなくても、否定的なコメントを送ることもあり得る。
そう考えると、先の問題は、学校内の教師文化と学校外の社会の文化とのコンフリクト(衝突)によって生じたものだったと捉えることができる。
(4) 学校の内同志を結ぶインターネット
ところで今回、結果的には一人一人がコメントを受け取り、ほぼ全員が喜びを味わう事ができた。それは、他の大学附属小学校と滋賀県の公立小学校の児童たちから、「指導者の配慮により」全員の子ども宛てにコメントが届いたからである。このことは、これまで述べてきた観点から重視すべきである。つまり、一人ひとりへのコメントは、学校がインターネットを通して学校の「外」から得たというよりも、学校文化・教師文化の文脈を共有する別の学校の教師の配慮によって、別の学校の「内」から得たのである。その意味では、ここでインターネットが繋いだのは、学校の内と外ではなく、学校の内同志なのである。さらに、相互鑑賞の授業中に届くように、後者の公立小学校の教師からコメントと励ましのメールが送られ、それを読み終わった子どもたちは「自然に滋賀県の方を向いて拍手を始めた」と報告されている。子どもたちがどれほどこのメールに喜び、感謝したかが読みとれるが、これもやはり学校文化を共有する教師の配慮によるのである。
このように考えると、この実践を通して明らかになったことは、インターネットは、少なくとも、互いに文化的文脈を共有する学校どうしを結ぶものとしては、かなり有効に機能させることができそうだし、その際には、教師によるフィルタも必要なさそうだということである。
しかし同時にわかったことは、それに反して、互いに文化を共有しない、学校と社会とを結ぶものとしては、有効に機能するとは限らないこと、またその場合には、少なくとも教師というフィルタを用意する必要があるということである。
そもそもわれわれ教師は、多かれ少なかれ、学校の壁の中に築かれたこのような学校文化をその基盤とし、それに支えられて教育実践を行っている。こういった自覚なしに安易に学校を開こうとすれば、教師も子どもも、教室の壁を越えると自分たちのこれまでのやり方が通用しないことを感知し、壁を越えることを忌避するかもしれない。結局インターネットは、教室の壁を崩すことなく、同じ壁に守られた、教室どうしのコミュニケーションだけに用いられるにすぎなくなる可能性もある。そうなれば、学校を開くことはできず、学校という集合体はかえって社会から隔絶されることになる。
学校からの情報発信についても、同様にこれまでの学校文化を考えなければならない。先述の、インターネットでの情報発信の個人情報保護条例による禁止に対するおおかたの論調は、それを単純に批判するものであるようだが、筆者はそう考えない。もちろん、プライバシー保護のための条例を主体的な情報発信にも機械的に適用し、両者の異なる点や教育におけるその可能性を検討しないとしたら問題である。しかし、そのような条例が存在するとしないとに関わらず、学校を開くなら十分な検討を必要とする。筆者は、コンピュータが、エアコンや回転椅子などこれまで教室になじみのなかったものを関連設備として持ち込み、それらの適切な扱いのノウハウが学校に蓄積されていないために、衛生や安全の面で問題が出てきていることを指摘した(大谷
1995)。インターネットは、より大きな危険をもたらす可能性を有している。しかも学校にはそれに対するノウハウが皆無である。「インターネットに児童の写真を掲載することは、(中略)跳び箱を跳ばせることと同じ程度危険であって、危険だから絶対禁止というのは少し性急すぎるのではないか」(石原
1996)という意見もある。
しかし、跳び箱を安全に跳ばせるための指導を教師は心得ているし、危険なら補助をつける。仮に怪我をしても、学校には保健室があって救急医療品が備えられているし、養護教諭もいるし学校医の制度もある。これがノウハウと備えの蓄積である。それに対して、インターネットでプライバシーが脅かされたり犯罪にまきこまれそうになったりすることに対して、またそうなってしまった場合に対して、日本の学校には、何の備えもできていないのが現実なのである。(アメリカには、子どもがインターネットを安全に利用するためのノウハウを蓄積した
WWW ページがある。たとえば、"Tips
for Safer Surfing"
http://www.safesurf.com/lifegard.htm
)
筆者は、外国の学校とのメールのやりとりで、相手の家族構成を知ったことから日本の子どもが偏見をもってしまった例を紹介し、今後はインターネット等を通じて、早いうちから情報の交流を行うことになるため、価値観や倫理の相対性のようなことも、やはり早い時点で教え始める必要のあることを指摘した。そしてこのことは、価値形成においては逆説的であるがゆえに困難で重大な課題であることを述べ、そのような課題を学校にもたらすのも、教育における情報手段の活用であることを述べた(大谷
1996)。
さらに、インターネットには、社会的に非常に大きな影響を生む可能性を有しながら評価の固まっていないものが存在し、誰でも自由に入手できる形で提供されている。ほんの一例をあげると、たとえば
PGP
という暗号化ソフトは、ネットワーク上でのプライバシー保護の目的で開発されたが、犯罪などに悪用されればその捜査や立証などを非常に困難にする恐れが現在もあり、その開発者は当局から告訴されていたほどである。
インターネットの世界は、教材の宝庫であるだけでなく、このようにあらゆる異文化も存在するし、単に好ましくないだけでなく、むしろ「好ましいか好ましくないか分からない」あるいは「非常に好ましくもあり、同時に非常に危険でもある」ものの存在する世界である。その意味でインターネットは、学校を、ポストモダン(脱近代的)な文化へと開くことになる。
ところで現在の学校は、工場などとともに、そもそも「近代の装置」と見なし得る(桜井
1984)し、現在の日本の学校は、近代学校制度の特徴を備えている。しかし、近代がその弁証法的契機として前近代性を有する以上、近代の装置としての学校もまた前近代性を有すると考えるべきである。しかも学校は、それがどこの国のものであっても、次のような属性をもつ.それは、価値観や倫理を子どもに伝える背景としての権威や非合理性、また社会からある程度隔絶する必要による閉鎖性、さらに構成員としての子どもの論理性や科学性の未発達さ、またマージナルな存在としての子どもへの我慢や服従の要求などのである.それらは、存在の契機として潜在していた前近代性を、本質的な特性として顕在化させる。
くわえて筆者は、学校の前近代性は、日本の学校に特に強いのではないかと考えている。それは、日本の学校の経営や教育内容の選択が、公選制に基づく教育自治でなく、トップダウンの教育政策に基づく中央集権的なものであること、父母は公立学校を選べないこと、教師も教育委員会採用であって働く学校を選べないこと、教師の専門的力量よりも、教師と子どもの信頼などの心情的な結びつきを基盤とした教育が重視されること「学級王国」ということばも示すように教室や学校の密室性が高いことなど、近代市民社会的な原則、ルール、制度とは異なる原理によって、学校が管理・運営されていることによる。そして、現在の学校の問題のいくつかは、学校の前近代性と近代性とのコンフリクトによるものと捉えることも必要だと考えている。(一柳廣孝(1993)も、日本の学校の怪談に触れて、学校は、「近代」の象徴であるがゆえに「前近代性」を抱え込まざるを得ない両義的な場であると述べている。)
インターネットがそのような学校に、新たにポストモダンな文化を持ち込めば、それと学校のモダン(近代的)な本質とのコンフリクトばかりでなく、学校のプリモダン(前近代的)な本質との、より激しいコンフリクトを生じる恐れがあると考えられないだろうか。
このような観点にたてば、インターネットは、このままでは、学校にとって、トロイの木馬になってしまう可能性があると考えざるを得ない。
トロイの木馬とは、ギリシャ神話で、ギリシャが難攻不落のトロイ城を攻めあぐねたとき、贈り物にみせかけて大きな木馬を残して船で去ったため、トロイの人々がそれをギリシャ軍からの贈り物として城の中へ入れると、その中に隠れていた精鋭部隊が夜中に出てきて城門を中から開き、ギリシャ軍が戻ってきてトロイを攻め滅ぼしたという物語によるものである。このトロイの木馬の比喩(Trojan
horse metapher)は、アメリカの研究者(Salomon,
G. 1991 や Schofield,
J.W.
1995)によって、学校へのテクノロジーの導入が予期しなかった変化や改善を生み出すという、肯定的な意味で使われている。しかし筆者は、これをあえて否定的な意味で使う。つまり、インターネットというトロイの木馬を、喜んで学校に導入した結果、それが知らぬ間に、学校を守っていた門を内側からひらき、学校になじみのない門の外の文化が学校を侵略し、ついには学校を攻め滅ぼしてしまうのではないかということである。
誤解のないように再度書くが、筆者は、現在の学校の状況を問題視しており、学校はあらゆる機会にあらゆる方法で、もっと社会に開かれていくべきだと考えている。また、ポストモダンな文化は、インターネットだけでなく、マスコミやその他のあらゆるメディアが、子どもや教師を通して、少しずつ学校にもたらし得る。そもそもポストモダンな文化自体を、全面的かつ絶対的に問題だとしているのでもない。しかし、日本の教師は、教師個人の専門職としての能力とともに、教室や学校の壁に守られて、学校がこれまで蓄積してきたノウハウや文化に支えられて(それは同時に教師や子どもを束縛してもきたが)実践を行ってきたのである。プールでうまく泳げる教師や子どもが、海でも安全に泳げるとは限らない。海や泳ぐなら、プールとの違いを自覚したうえでの、相応の準備が必要である。同様に、教師や子どもが慣れない新たな文化に出ていくなら、それを自覚し、相応の準備が必要なのである。
6.インターネットと学校教育の再検討とテクノロジーアセスメントの必要
このような状況に対応していくために必要なことは、まず、インターネットがテクノロジーとして、学校にどのような影響を与えるかを予測し、評価することである。しかし、この評価は非常に難しい。インターネット自体が発展を続けているうえ、その教育での利用も、現在多様に開発されているものだからである。したがってこの評価は、逆説的だが、利用を通して慎重に行っていく他はない。その意味でも、先述の実践例は失敗例としてあげたのではない。それは果敢で、有益な情報に富んだ試みである。このような実践を蓄積し成果を交流して、多様な視点から検討することこそ必要であろう。
ただしその際に評価・検討すべきものは、テクノロジーのみではない。この実践例のように、テクノロジーは、学校教育の本質的かつ潜在的な特性を明るみに引き出してくる。これまで、テクノロジーの影響を評価する営みは、「テクノロジーアセスメント(技術評価)」と呼ばれてきたが、松下(1972)は、そこではテクノロジーだけがアセスされるのでなく、社会や人間がアセスされるべきだと述べている。この考え方に立てば、学校教育におけるインターネット利用では、インターネットだけでなく、学校教育自体もアセスする必要があるということになる。これまでのテクノロジーアセスメントの多くは、新材料の採用や、ダムや発電所などの大規模施設の建設が、自然環境や産業などに与える影響を評価するものであった。しかし、インターネットは、極めて巨大な国際的なテクノロジーであり、その文化的影響を評価・検討する努力を怠ってはならない。そしてそこでは、ここに述べたように、それと相互に影響を及ぼし合う、学校教育自体の諸側面や諸特性をこそ、再検討していくことが必要なのである。
一柳廣孝(1993)学校というメディア 〜学校をめぐる都市伝説と怪談のフォークロア〜、NAGOYA発、No.26、1993、名古屋市(電通編)、15-18
石原一彦(1996)情報化・国際化の中でネットワークに接続しないのは鎖国!、NEW教育とコンピュータ、9月号、学研、33-35
松下 寛(1972)高橋希一偏「テクノロジー・アセスメント入門」竹内書店(第六章<シンポジウムテクノロジーアセスメント>人間のための技術、所収、p232)
奥村高明(1996)インターネットとマルチメディアパソコンを活用した図画工作科教育の実践、教育美術、平成8年8月号(No.650)、76-92
大谷 尚(1995)
コンピュータが教室にもたらすもの.教育と医学.1995.2、64-69
大谷 尚(1996)
情報を交流する能力、赤堀侃司編「教職研修情報化時代に求められる資質・能力と指導」、教育開発研究所、102-105
桜井哲夫(1984)近代の意味〜制度としての学校・工場〜、日本放送出版協会
Salomon, G.(1991) Transcending the
qualitative-quantitativedebate: The analytic and systematic
approaches to educational research. Educational Researcher, 20(6),
10-18
Schofield, J.W.(1995) Computers and classroom
culture, Cambridge, N.Y., Melbourne, Cambridge University
Press,
○このページは、「学習評価研究」No.29 1997 Spring
pp42-49に掲載された、筆者の標記論文を掲載したものです.このページへ掲載に際して、ごく一部を修正しています.
第一に、雑誌では、筆者の不注意により、引用文献の著者のお名前を、本文中で誤って記述してしまいました.(文献の欄では正しく記しています.)お詫びして訂正致します.
1.の「奥山, 1996」→「奥村, 1996」(雑誌では、P43
上から3行目)
第二に、雑誌では、筆者の不注意により、"Tips for Safer Surfing" の
URL を誤って表記していますので訂正しました.(lifeguard
と、正しい綴りで記したのですが、実際には、lifegard
でした.これは東大の佐伯先生の御指摘で気づきました.記して謝意を表します.
)
3.の最後、「http://www.safesurf.com/lifeguard.htm」→「http://www.safesurf.com/lifegard.htm」(雑誌では、P46
上から6行目)
第三に、初稿時に加筆・修正した部分を印刷者が誤植し、再校がなかったために、筆者がそれに気づくことができなかった誤りで、以下の三つです.
3.の「閉鎖性と、」→「閉鎖性、」(雑誌では、P46
下から4行目)
3.の「学校王国」 →「学級王国」(雑誌では、P47
上から6行目)
3.の「教室の密室性が高い」 →「教室や学校の密室性が高い」(雑誌では、P47
上から7行目)
雑誌をお持ちの方は、おてもとの雑誌を訂正して下さいますよう、お願い致します.
○このページを学術あるいは教育実践目的で引用なさったり他のページからリンクして下さったりすることを歓迎致します.その場合、筆者の今後の研究のためにotani@educa.nagoya-u.ac.jpまでご連絡頂ければ大変有り難く存じます.
○このページとこの論文の内容に関するご意見やご感想をotani@educa.nagoya-u.ac.jpに頂ければ幸いです.
○このページを、印刷媒体、CD-ROM、VTR、放送等で利用しようとなさる方はotani@educa.nagoya-u.ac.jpまで連絡して許可を求めて下さい.
○最後にこのページを更新したのは、1997.4.3 です.Ver.1.12