(1)
情報の交流には、コンテクストを越えていく努力と工夫が必要である.
(2) また、適切な情報の交流には、「ネチケット」が必要である.
(3)
異なる価値観や倫理との出会いにともなって、価値観の形成のための教育のあり方が問い直される必要がある.
ここでは、相互に発信された情報を理解し、共感し、享受し、活用し、共有して相互理解を深めていくことを情報の交流と呼び、その際の問題を検討する.
(1) 異文化交流としての外国との情報の交流
近年、外国の学校との電子メールの交換が、非常に盛んになってきている.しかし実際に観察すると、家族構成や趣味や将来の職業選択などの定型的な内容を交換しただけで、それ以上発展しないことがある.日本の子どもたちは、もっと何かたずねるべきだと思っても、外国の子どもに何をたずねたらよいかわからなくなってしまうことが多い.それに対して相手側は、もう少しつっこんだ議論を始めたいと望み、自分たちの関心のあるリサイクルや捕鯨などの環境問題について、意見や質問を送ってくることがあるが、日本の子どもたちは、相手がなぜそのようなことを言ってくるのかが理解できない.たとえば、なぜいきなりリサイクルについてたずねてきたのかがわからない.また捕鯨など、日本がかかわる問題について遠慮なく追及してくることに戸惑いを感じ、そのために適切に応答できなかったり、交流の意欲を失ったりするケースもある.
このことは、インターネットの普及以前の、パソコン通信を用いた学校間通信を観察していたときから、情報の交流の発展を阻害する要因として、筆者はずっと関心を持ってきた.
(2) 社会的・文化的コンテクスト
筆者が、このような問題の背景として重視するのは、「社会的・文化的コンテクスト」(「解説キーワード」参照)である.そもそも学級での日常的な会話や発表と、外国の学校とのコミュニケーションなどの情報の発信や交流との本質的な違いは、前者が同じコンテクストの内でのメッセージのやりとりであるのに対し、後者は、異なるコンテクストとのメッセージのやりとりであることだと筆者は考えている.そして、上のような問題もこのことに起因する.
つまりこの場合、相手はこちらのコンテクストを読まずに発信を行い、またこちらは相手のメッセージの背景としての相手のコンテクストが読めなかったのである.
コンテクストの違いは、このように情報の交流を妨げる場合がある.このことは、十分考慮されなければならない.
(3) 学校や学級のコンテクストの高さ
くわえて筆者は、近年、「学校や学級の文化的なコンテクスト」に注目している.われわれ教員にとっては大変不名誉なことだが、「先生の常識、社会じゃ非常識」ということばがある.これは、少なくとも学校文化や教員文化のコンテクストが、それ以外の文化のコンテクストとかなり異なることを表すものである.また学校は、人々が互いに非常に深くかかわり合い、独自の規則や規範を持つ、非常にコンテクストの高いところである.
それにくわえて学級では、「学級経営」を通して、成員のかかわり合いを強め、深め、学習ルールや規律、また共通の学習目標や価値観を形成していく.つまり、学級の文化的コンテクストは高くなっていく.(筆者は、学級のコンテクストが高くなりすぎていることが、いじめや不登校などの、今日の学校におけるいくつかの問題の要因のひとつとなっているのではないかと考えており、場合によっては学級のコンテクストを低くする努力が必要だと考えているが、それについては、ここでは詳しく触れない.)
(4) コンテクストを越えた交流のために
このような状況に目を向ければ、現在の子どもたちにとって、外国の学校との情報の交流以前に、そもそも異なる学級との情報の交流が、簡単なことでないことに気づく.加藤周一は、日本の社会について、イントラグループ(グループ内)コミュニケーションは円滑だが、インターグループ(グループ間)コミュニケーションは困難だと指摘しているが、これは学級にもそのまま適用できる.つまり、学級内コミュニケーションは円滑だが、学級間コミュニケーションは困難なのである.
しかし今日、主体的な学習や、総合学習的な内容・方法を有する学習の展開が求められており、その過程で国の内外の異なる地域の子どもたちや、社会におけるさまざまな人々との情報の交流がいっそう求められるようになってきている.このような状況で、コンテクストを越えた情報の交流を行うためには、まず、学校内の他学級や他学年など、学級を越えた情報の交流を経験し、それを拡大して他学校や外国との交流を行うべきである.
そして受信に際しては、メッセージを相手のコンテクストに即して理解することにつとめる必要がある.また送信に際しては、メッセージをできるだけコンテクストとともに示すこと.具体的には、文化的背景を示したり、写真やビデオや具体物なども交換し、メッセージをとりまく全体的な状況を示すことによって、それらからコンテクストを読み取ってもらえるようにつとめることが有効である.
これらのことによってはじめて、異なるコンテクストの間の情報の有効な交流が成立する.そしてそのことは、自らのコンテクストを相対化し、学校や学級のコンテクストを低くし、結果的にそれらを社会に対して開いていくことにもつながっていくと考えられる.
(1) 情報手段の特性の不理解に基づく問題
情報の交流の妨げとなる第2の要因は、情報ネットワークの仕組みや特性の不理解である.たとえば、大学などの機関のインターネットの世話役として、postmaster
とか www-admin
というアドレスが表示されている.そしてそれは、大変多くのサブドメインの管理者のメーリングリストになっていることが多い.したがって、それに対して質問のメールを送ると、そのメールは、何十倍にも増殖して個別部局の管理者に送られ、ときとしてメールの主旨に関係のない何十人もの貴重な時間を奪うことになる.
さらに、世界的な規模のニュースグループでは、一通の投稿が、そのグループを講読している世界中のニュースサーバにつぎつぎに送られるため、想像もできないほど大きなトラフィックになって、世界を駆けめぐることになる.こういった事情を十分理解しないで安易に情報を発信することは、情報の交流の阻害因となり、厳に慎むべきことである.
(2) ネットワークの特性と感情の表現の問題
情報の交流を妨げる第3の要因は、ネットワークを利用する場合の感情の表現に関することである.普段は非常に穏やかな人でも、受け取ったメールに対して感情的な反発を込めたメールを出すことがある.そして、本人はそれを自覚していないこともある.あるいはそのようなメールの送信後に後悔することもあるようだが、パソコン通信の掲示板等とは異なり、インターネットのメールや、メーリングリスト、ニュースグループへの投稿は、いったん送信すれば取り消すことができない.
このような不適切な感情表現がおきるのは、コンピュータ上でメールを読んだり返事を書いたりする作業が、閉じた世界で行われるからではないかと筆者は考えている.ちょうど自動車を運転している人が、自分の車のなかで、大変乱暴なことばで、他の車の運転をののしったりするのと同じである.コンピュータでの作業は、この点に限れば、運転ときわめてよく似ている.
また、メッセージの送信手続きも影響している.郵便であれば、手紙を書き、封筒を用意して相手の宛名と自分の住所氏名を書き...という手続きの面倒さや、多少でも郵送料などのかかることが、反発のメッセージを送ることにブレーキをかける可能性がある.また、そのような手続きのどこかの時点で、手紙を出すことを思い直すかもしれない.しかし、電子メールに反発を感じれば、それに対してすぐに応答メッセージを書き、送信してしまいやすい.くわえてその間の操作は、コンピュータの前に座ったままの連続的なものであるため、気分転換も行われず、思い直したりするチャンスを得にくい.
(3) ネチケットの必要性
この第2・第3の問題は、コンピュータやネットワークの本質的な特性に起因する問題である.そこで、ネットワークを使う際のエチケット「ネチケット」を確立し、共有することによって、このような問題を克服しようとする動きがさかんになってきた.ネチケットはさまざまな個人や組織よってまとめられ、提供されている.このような情報を集積して提供しているWWWページも存在する(たとえば東金女子高等学校の高橋邦夫教諭の「ネチケットホームページ」).情報の交流のためには、まずそれらを学ぶべきである.
ただし、ネチケットは規則ではない.それを参考にどう行動するかは、あくまでも個人の主体性の問題である.また、どのネチケット文書も唯一の確定的なものでなく、相互に内容が異なっていることがある.しかも、それらすべてが、ネットワークの世界の発展にともなって、変化を続けている.したがって、つねにネチケットに関心をもち、その情報を取得しながら、主体的な判断力を養っていくことが重要である.
(1) 情報の交流のもたらす異なる価値観との早期の出会い
最後に、情報の交流に関して、将来かならず問題になると考えられる点について述べる.それは、自分の文化の価値観や倫理と異なったり、それに反したりするような文化との出会いの問題である.
たとえば、アメリカの子どもが、自分の家族構成を、自分と母親と step
father と step brother
との4人だというふうに書いてくることがある.これは、両親が、それぞれ子どもをつれて再婚したことを意味している.こういうことは、現在のアメリカでは珍しいことではないが、日本の子どもにとって、あまり一般的な状況ではなく、家族は血のつながりのある成員によるのが普通だと思っているので、この子の家庭は不幸で、この子はひどく不幸な子だと思ってしまうことがある.また、この子にこのような生活をさせている母親は悪い人だと思ってしまうかもしれない.しかしこれらは偏見であり、コミュニケーションを阻害する.
ところで、ここにあげたような家庭の状況は、日本も将来そうなる可能性がないとはいえないが、日本とは決定的に違う状況もある.たとえば世界には、伝統的に一夫多妻制をとる国がある.また、性転換や同性同士の結婚のように、これまでどこの国でも決して認めてこなかったことを、近年になって法律的にも認めるようになった国々がある.こういう国の人々や子どもとのコミュニケーションの際に、日本の子どもが、相手の家族に関する情報を受け取ることがあろう.また、そういうことが話題にならなくても、そういった国の人々に対して、従来の日本の価値観からだけ一方的に見て、よくない習慣、文化だと感じ、偏見や嫌悪感を抱いたままコミュニケーションを行うことは適切ではない.それはあらゆるメッセージの内容にまでバイアスをかけ、正しく理解させないおそれがある.
(2) 情報化時代の価値観の形成
従来は、子どもが非常に小さいうちから、このように異なる価値観や倫理をもつ人々と交流することはきわめてまれだったため、異なる価値観や倫理について早くから教えてはこなかった.しかしこれからは、子どもたちがこういう文化や人々と、若いうちから情報の交流を行うことになる.そうであればやはり、自分の価値観からのみ一方的な偏見を抱かないために、価値観や倫理には文化によって相対的なものもあることを、かなり早くから教える必要がある.このことは、価値観の形成のためには、ある意味でパラドクシカルなことである.これは従来なかったことであって、社会の情報化と教育における情報手段の活用のもたらす新たな課題である.
ただしそれは、どのような価値観や倫理もすべて相対的なものだとか、いつでも好きなようにある価値観から他の価値観へと乗り換えてよいと教えることではなかろう.相対的な部分のあることを認めながらも、自分の文化や社会の価値観を尊重する態度を養うことや、相対的な部分を越える絶対的・普遍的なものを求める態度を養うことが必要であろう.そのような基盤のうえで、新しい価値観や文化を創っていけるような人間を育てていくことこそが重要である.それをどのように行っていくかは、情報化時代の教育のもっとも大きく重い課題のひとつであると考える.
<解説キーワード「社会的・文化的コンテクスト」>
いっぱんに「ことばの意味」は、文章のつながり具合、経緯、状況等の「文脈」(コンテクスト)によって異なるし、発せられたことばの意味は、文脈なしには正しく理解できない.この「文脈」という考え方は、社会的な状況や文化的な状況にも適用される.あるメッセージが発せられ、ある行為がなされた国や地方や組織のなかの、成員に共通な行動の様式、価値観、その他の状況を、社会的・文化的コンテクスト(socio-cultural
context)
と呼ぶ.また、個々の文化的コンテクストの特性を表す概念として、コンテクストの「高さ」も重要である.エドワード・T・ホール(1979)は、人々が互いに深くかかわり合っている文化をコンテクストの高い文化と呼び、そこでは、簡単なメッセージでも深い意味をもって伝わると述べている.また逆に、個別化の度合いが強い文化をコンテクストの低い文化と呼んでいる.彼はまた、未知の高コンテクスト文化は、外の者には全く不可解なものに見えることと、日本がそのような国であることを指摘している.
<文献ならびに情報>
・エドワード・T・ホール著、岩田慶治/谷泰訳「文化を超えて」TBSプリタニカ
1979
・加藤周一『日本社会・文化の基本的特徴』加藤周一他「日本文化のかくれた形」岩波書店
1984
・東金女子高等学校 高橋邦夫教諭による「ネチケットホームページ」http://www.togane-ghs.togane.chiba.jp/netiquette/index-j.html
○このページは、河野重男監修、赤堀侃司編集、『教職研修「心の時代の教育」』「宸T
情報化時代に求められる資質・能力と指導」「。情報化時代で問われる資質・能力」(1996年12月、pp102-105、教育開発研究所)所収の、筆者の標記論文を掲載したものです.
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○最後にこのページを更新したのは、1997.4.3 です.