植田 健男の画像

専門領域について

Q どのようなきっかけでこの学問を始めたのですか?
「教育経営学」という学問に「目覚めた」のは、研究の世界に入って随分経ってからのことでした。
私の出身講座は、この大学ではないのですが少なくとも「教育行政学」講座でしたので、自分では「教育行政学」を研究しているつもりでいました。お恥ずかしい限りですが、前任校にいる時に、名古屋大学から「教育経営学」講座にお招きを受けて、はじめて自分が今までやっていたことが、「教育行政学」というよりはむしろ「教育経営学」であったことを自覚したような次第です。
全体像を捉えられないままに部分的にとは言え、「教育における administrationの研究をしていたという点では、出発点は随分昔のことであり、学部学生時代からということになりますが、「教育経営学」の自覚的追求は上のようなきっかけによっているということです。
なお、この二つの学問領域の「区別と関連」については、植田健男「第13章 住民自治と学校」(浦野東洋一・堀尾輝久編『講座学校第7巻 組織としての学校』1996年)等のなかで書いていますので、ご関心をお持ちの方はせびともご参照下さい。


現在の研究について

Q 現在の主要な研究の内容を教えてください
現在の主たる研究テ−マの一つ、「地域教育経営」の構築ということに尽きると思います。教育経営とは、公教育の組織・運営を意味しており、既存の公権力機関である教育行政機関も含めて、どのようにして公教育を組み立て動かしていくのかが最も大きな研究課題です。公教育というといろんな領域が含まれてきますが、そのなかでも私の場合は学校教育に重点をおいて考えていますので、公教育の実現形態である学校教育をどのようにして組み立て動かしていくのかが、私の研究関心の中心にあります。
その際、忘れてはならないのは、教育基本法が第一条で「教育の目的」を「人格の完成」と規定し、さらに第十条で「教育の直接責任」制を謳っているということです。つまり、これにより規定された公教育の内容を、国民全体に対して直接に責任を負うような形で営まれることが命じられているのです。果たして、それをどのようにして実現していくのか、その原理と制度の構築が課題となります。
私は、公教育が本来もっている住民の共同業務としての側面を重視して、それにふさわしい組織形態、運営形態を追求したいと考えています。残念ながら戦後半世紀を過ぎてなお、この課題は未だ果たされていませんし、その追求すら決してこれまで十分なものであったとは言えません。敢えて、この古くて実は新しい課題に挑みたいと思っています。
その際、教育現場で見失われがちな教育活動の全体計画としての教育課程が、あらためて中心に据えられなければ、上記の課題は追求し難いことも付け加えておきたいと思います。したがって、教育課程経営論も現在の中心をなすテ−マの一つです。

Q 今までの研究で一番心に残っている出来事、ハプニングを教えてください
研究というと教育とは別物で、そこから離れたところで、研究者が一人で机上の上で展開するものであるような感じがすると思います。
「教育と研究の統一」ということはしばしば語られることですが、多くの場合、達成されることのない永遠の命題、あるいは理想論として語られているようです。しかし、学生や院生たちとの教育活動のなかで自分の研究も発展し、またその研究成果が今度は教育に循環していくということを、この名古屋大学に来て初めて自分のものとして獲得することができました。
また、学校現場における教育実践と教育・研究とのリンクも同様のことであることを、これまたこの名古屋大学に来て学び取ることができました。研究者が現場に対して一方的に教えを垂れるという姿が想像されがちですが、決してそうではないと思います。
観念的な色彩が強く、それを学風として誇るような場で学部教育を受け、大学院教育を受けてきた私が、そこでいつの間にか見につけてしまっていた自分の殻を初めて打ち破ることができたのは、ひとえにこの名古屋大学の先生方や学生たちとの出会い、そして学校現場の先生方との出会いによるものであったと確信しています。


講義について

Q 授業のねらい、背景を教えてください
ボク自身(ここらあたりで、いつもの言い方に戻らせていただきます)、皆さんと年代としてはずいぶん隔たりがあるとはいえ、やはり同じように排他的競争関係のなかで、「受験学力」のみを競い合うという「ぐるみ競争」に巻き込まれて育ってきました。
しかし、あれだけの苦労をして、いろんなものを諦め、そして捨て去りながら、そのなかで形成されてきた「学力」の実体とは何であったのかというと、大きな疑問を感じざるをえません。「頭がいい」とか「できる子」とかいう実体の伴わない評価にこだわり、他者に対する優越感のみが増幅させられるなかで生きてきた自分の「人間」としての「育ち」を振り返らざるをえません(でも逆に言えば、取り残されたり、落ちこぼれたりしないように、という一心で「みんなと一緒に」ということにしがみついてきた心細さ)。
自己否定をしろと言っているのではなく、今の自分の「育ち」を「偏差値」などといったあてがいぶちの物差しでではなく、仲間と一緒にもっと客観的に見つめあって欲しい。そして、もしもそこに問題があることが解ったら、どうやったら自分たちの力で打ち破っていけるのか考えて欲しい。
教育学に向かい合うということは、自分自身や日本の教育の現在に向かい合うことなのだろう、と思っています。教育経営学の関連講義や演習を通して、いつも考えていることの基本はここにあるように思います。


学生へのメッセージ
Q 求められる学生像を教えてください、またその他なんでも結構です。

ひょっとしたら、上に述べたことに尽きるのかもしれません。
しかし、敢えて付け加えるならば、いま「人間的自立」の弱まりが危機的な問題としてあると思います。それはもちろん、学生たちだけの問題ではなく、日本の大人や社会そのものの危機的な姿でもあります。ひとを人間として尊重する、自らを人間として尊重するという原理を放棄しつつあると言ってもいいでしょう。自分たちの安楽さや利益だけを追求し、そのためには他人がどうなっても構わない、という「原理」が世の中を覆いかけているようです。
「大人」の価値基準からすれば、理解することのできないような青年たちの自己中心的な行動を、ただ単に「道徳心の欠如」としてのみ捉えてみても、それはことの本質からは大きくそれてしまうばかりで、誤った対処策を導きかねないでしょう。青年たちからみれば、目の前の「大人」たちの行動原理を自分たちなりのやり方で体現しているに過ぎないのです。
こうしたなかで、子どもや青年が大人(社会)を否定すると同時に、「大人」になることを目指さない青年たちが、確実に増えてきているのを実感しています。自分の未来が見えないだけではなく、日本の未来すら信じられないような時代になっているのでしょう。それは、何も学部学生だけのことではありません。下手をしたら大学院の博士課程すら、研究者への道を責任をもって選択した者たちが、その目標実現に向けて自己形成していく場ではなく、突きけられた課題に向かい合うことを回避するための、モラトリアムの延長線上の待避場と化しかねない。
いつまでも子どものままでいたい。自分の好きな「おいしい」ことだけをしていたい。何かあっても責任を問われず、保護され甘やかされて生きていたい。そして、若い者たちに対して文句ばかり言っているけれど、こんな自分たちをつくったのはお前たち大人じゃないか、という挑戦的な眼差し。
しかし、ほんの少し年下の世代からみれば、皆さんも彼らの目には「大人」と写っているのです。彼らも、きっと同じ眼差しを皆さんに向けているはずです。
いつまでもお互いを揶揄したり、批判だけをしていても何も変わらないし、悪い方向にしか向かっていかないことは明かです。自分では、当然「大人」になっているつもりでいても、実は「大人」になりきれていないという「大人たち」も、「大人」を目指さない、目指したくない「青年たち」も、ここらあたりで、「人間」に育つとはどういうことなのかを一緒に考え、どうやったら共に育っていけるのかを考えてみませんか。
そこが、「私たちの人間発達」の出発点であり、研究の出発点ではないでしょうか。

受講生から一言

金曜4限 植田ゼミ(教育経営学演習)
学生が主体となって企画・運営する、やりがいあるゼミです。一年間通年の授業です。具体的には北海道宗谷地区(稚内市)に着目し、そこでこれまで行われてきた「教育合意運動」と、各個別学校における「学校づくり」の実践について研究します。
もちろん秋には教育調査研究という名目で、ゼミのメンバー全員で現地を視察し、グループに分かれて興味ある研究を行います。調査も楽しみですが、美味しい海の幸を味わえ、有り難い先輩や先生の話をじっくり聞く機会にも恵まれますよ!学部の二年生から大学院生、そして頼りがいある植田先生と南部先生のみんなで、楽しくアットホームに「学び合い」をしてみませんか?